全額払いの原則と相殺
Q. 当社の営業社員が売上金の一部を着服し使い込んでいることが発覚しました。就業規則の懲戒解雇事由には該当するものの、金額はわずか数万円であり、本人も十分反省しているので、懲戒処分とはせず、普通解雇(予告済み)にしました。この場合、最後に支払う賃金月額から、本人への損害賠償金額を控除して支払う予定ですが、何か問題がありますか。 |
A. 使い込みによる賃金からの弁償金の控除は、法律的には賃金債権と労働者に対する損害賠償債権の対等額での「相殺」です。判例は、相殺も「控除」の一種として労使協定がなければ許されない、と厳格に解しています。ただし、使用者が一方的に相殺するのではなく、労働者の同意を得て行う場合には、一定の条件のもとに許される、と解釈しています。 |
◆賃金全額払いの原則と控除の意義
賃金はその全額を支払わなければならない、というのが賃金全額払いの原則(労基法24条1項)。履行期の到来している賃金債権の全額を使用者に支払わせることにより、賃金を唯一の生活の糧とする労働者の生活の安定を図ろうとするものです。ズバリ、賃金から何らかの名目で「控除」することを禁止するのがねらいです。
ただし、給与所得税の源泉徴収や社会保険料の控除など法令に別段の定めがある場合や、過半数労組または過半数代表者との書面協定があれば、例外が許されます。
賃金の「控除」とは、履行期の到来している賃金債権の一部を差し引いて支払わないことをいいます。ここで問題となるのは、使用者が労働者に対して有する債権を自働債権とし、労働者の賃金を受働債権とする相殺(民法505条)が「控除」の一種として禁止されるかどうかということです。
最高裁の2つの判決は、これを積極に捉え、禁止されるとしています。すなわち、労働者の債務不履行(業務の懈怠)を理由とする損害賠償債権を自働債権として労働者の賃金債権との相殺を行った場合も、労働者の不法行為(背任)を理由とする損害賠償債権を自働債権として賃金との相殺を行った場合も、いずれも相殺禁止の趣旨を包含する、と判示しています(関西精機事件 最判昭31.11.2、日本勧業経済会事件 最判昭和36.5.31)。
後者の判決は、次のように述べています。「労働者の賃金は、労働者の生活を支える重要な財産で、日常必要とするものであるから、これを労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにすることは労働政策の上から極めて必要なことであり、労働基準法第24条第1項が、賃金は同項但書の場合を除き、その全額を直接労働者に支払わなければならない旨を、規定しているけれども、右に述べた趣旨をその法意とするものというべきである。しからば同条項は、労働者の賃金債権に対しては、使用者は、使用者が労働者に対して有する債権をもって相殺することを許されない」趣旨であると、理由と結論を明らかにしています。
◆調整的相殺と合意による相殺
これに対し、過払賃金の清算のための「調整的相殺」は、一定限度で許容しています。つまり、その時期、方法、金額などから見て労働者の生活をおびやかさない限り、全額払い原則の例外として許されるとしているのです(最判昭44.12.18)。賃金過払いの不可避性および賃金と関係ない他の債権を自働債権とする場合とは趣を異にすること、を主な理由にかかげています。
また、使用者が一方的に行う相殺と異なり、使用者が労働者の任意の同意を得て行う相殺は、労働者の「自由な意思に基づいてなされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは」、全額払いの原則に違反しない、と解釈しています(最判平2.11.26)。
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